【西条昇の軽演劇コレクション】京都・松竹劇場、南座、大阪・浪花座での新興キネマ演藝部公演のパンフレット
レヴュー 軽演劇 コレクション 西条昇 上方演芸 松竹 川田晴久 あきれたぼういず 浪花座 ミヤコ蝶々 森光子 大衆芸能研究 京都 上方漫才 有島一郎 吉本興業 東京吉本 南座 吉本 演芸 浅草 喜劇史 演芸史 漫才 森川信 伴淳三郎 芸能史 お笑い ワカナ・一郎
昭和14年3月から4月にかけて、日本の演芸史・喜劇史・芸能史に残る大事件が起こった。
松竹の傍系の映画会社であった新興キネマが、新たに演芸部を立ち上げ、専属タレントとして、演芸会社トップの吉本興業から、リーダーの川田義雄(のちに晴久と改名)を除いたコミック音楽ボードビル芸の四人組「あきれたぼういず」の三人、男女漫才トップのミスワカナ・玉松一郎、若手インテリ漫才の香島ラッキー・御園セブンら売れっ子芸人をごっそり引き抜いたのである。
あきれたぼういずも、ワカナ・一郎も、前年の昭和13年にメキメキと売り出し、昭和14年春の時点で吉本全体の中でも五本の指に入る人気者になっていた。
芸人と契約書を取り交わすような時代ではなかったとは言え、当然、吉本としても黙ってはいられない。
京都府警と大阪府警が調停に入る大騒ぎとなり、ようやく同年5月末に和解が成立した。
この時、新興キネマ側の使者として、あきれたぼういずの面々に前金を渡し、引き抜きの裏工作を行っていたのが、吉本の万成座に出演していたこともある伴淳三郎であったという。
川田義雄は少し前に吉本の女優と結婚した際の仲人が東京吉本のトップの林弘高だったという義理もあり、急遽、川田義雄とミルク・ブラザースを結成して吉本に残留する。
川田を除く坊屋三郎、益田喜頓、芝利英の三人は、古川緑波一座に居た山茶花究を加え、あきれたぼういずというグループ名と共に新興へ。
残されているあきれたぼういずのSPレコードの音源では、やはりオリジナルメンバーの揃っていた時のものがコミック音楽ボードビルとして圧倒的にセンスが良く、川田の抜けた第二次あきれたぼういずも、「♪地球の上に朝が来る〜、その裏側は夜だろう〜」というテーマソングで知られる川田とミルク・ブラザースも、共に第一次あきれたぼういずに比べるとパワーダウンは否めない。
その頃の顛末については、生前の坊屋三郎から詳しく話を聞くことが出来た。
吉本では吉本ショウの中で、あきれたぼういずとして一景を受け持ち、十日ごとに新ネタを作る必要があったのに対し、新興では踊り子や女優を加えて、あきれたぼういずをメインとしたストーリー仕立ての単独のショウを作家が作り、一つのショウで京都・大阪・神戸の松竹の劇場を回ることが出来たそうだ。
僕の手元にある京都の松竹劇場や南座や大阪の浪花座での新興キネマ演芸部公演のパンフレットは丁度その頃のもので、あきれたぼういずによる新興ショウが上演されている。
昭和16年に入ると、シミキンやタップの中川三郎と共に東宝系映画館の実演アトラクションに出演することになった益田喜頓に代わり、音楽男(おとがくお)の名前と顔写真があきれたぼういずのメンバーの中にあった。
ワカナ・一郎は、まだ離婚していなかった頃で、まさに面白さの絶頂にあった頃だろう。
僕は日本の女性芸人史上で、面白さと芸の達者さにおいて、このミスワカナ(初代)がNo.1だと思っている。
SPレコードの音源の「全国婦人大会」や「ワカナの放浪記」で日本全国の方言を喋りわけ、一郎へサラリと皮肉を言っては笑いを誘うワカナの芸を聞くたびに、その達者さと色気との絶妙の配分に惚れ惚れとしてしまうのだ。
森光子もミヤコ蝶々もワカナから大きな影響を受けており、その上品な色気と捨て台詞を使いわける切り替えの間がワカナに良く似ていると思う。
絶頂のワカナ・一郎と第二次あきれたぼういずに加え、新進のコミック音楽バンドのハットボンボンズが居て、更に軽演劇の要員には伴淳三郎、森川信、有島一郎、沢村い紀雄、岸田一夫、永田キングらが揃っていたのだから、当時の新興キネマ演芸部公演の満足度と爆笑度はかなり高かったと言えるだろう。
現在、西条昇は、戦前の浅草レヴュー・軽演劇のパンフレット・チラシ類の資料や、戦後の浅草フランス座、浅草ロック座、浅草東洋劇場、浅草公園劇場、浅草ロマンス劇場、浅草百万弗劇場、浅草国際セントラル、浅草小劇場(ショウ劇場)、浅草座、カジノ座、美人座、奥山劇場(奥山ミュージック)、大都劇場、スミダ劇場(ピカデリーショウ)、新宿フランス座(新宿ミュージックホール)、新宿セントラル、新宿ニュー内外ミュージック、新宿モダンアート、池袋フランス座、池袋文化劇場、池袋アウ゛ァン座(アバンギャルド)、池袋スカイ劇場、日劇小劇場、銀座コニーバーレスク、東劇バーレスクルーム、江東パリー座、五反田オデオン座、蒲田ミュージックホール、渋谷テアトルSS、渋谷道頓堀劇場、早稲田全線座、川崎セントラル、横浜セントラル、横浜新世界、名古屋の港座、納屋橋中央劇場、富士劇場、カイケイ座(開慶座)、銀映、名古屋ミュージックホール、岐阜セントラル、KBK劇場、真砂座、京都の京極小劇場、富貴、大宮劇場、伏見ミュージック、豊橋の東海劇場、大阪の道頓堀劇場(道劇ミュージック)、温泉劇場(温劇)、弥生座(PBショウ)、泉座、木川劇場、九条OS、ダイコーミュージック、千中ミュージック、尼崎の三和劇場、二光劇場、神戸の新開地劇場、寿座、金沢の立花劇場、岡山文化劇場、広島の廣栄座、徳島のSY松竹、下関の豊前座、熊本の文化劇場、福岡の川丈座(テアトル川丈)、柳橋劇場、西日本劇場などの幕間コントありのストリップ(バーレスク)ショーのパンフレット・チラシ・ポスターを集めています。
これらをお持ちの方いらっしゃっいましたら、ぜひ、適価でお譲り頂けたら幸いです。
コピーをとらせて頂くだけでも構いません。
このblogの左側のバーの西条昇のプロフィール欄に掲載されている西条事務所担当者のメルアドにご連絡下さい。
また、当時のショー・軽演劇に出演されていたコメディアン・女優・踊り子さん、ショー作者、振付師、劇場スタッフの方々のお話もぜひ、伺いたく存じます。
特に西条は、執筆調査のため、浅草の大都劇場やロック座やフランス座や東洋劇場に出演されていた、高杉由美さん、園はるみさん、伊吹まりさん、川口初子さん、津田紅子さん、柳登世さん、べテイ丸山さん、浪路笑さん、ヒロセ元美さん、千代笑子さん、奈良あけみさん、メリー松原さん、グレース松原さん、朝霧幾世(リリー丘)さん、エミー美山さん、一条ゆかり(摩耶ジュリ)さん、三冬マリさん、高原由紀さん、栗田照子さん、浅草待子さん、長谷川あけみさん、炎加世子さん、天津くるみさんといった方々にお話を伺いたく、その消息とご連絡先を探しています。ご存知の方いらっしゃっいましたら、ぜひ、よろしくお願いいたします。
松竹の傍系の映画会社であった新興キネマが、新たに演芸部を立ち上げ、専属タレントとして、演芸会社トップの吉本興業から、リーダーの川田義雄(のちに晴久と改名)を除いたコミック音楽ボードビル芸の四人組「あきれたぼういず」の三人、男女漫才トップのミスワカナ・玉松一郎、若手インテリ漫才の香島ラッキー・御園セブンら売れっ子芸人をごっそり引き抜いたのである。
あきれたぼういずも、ワカナ・一郎も、前年の昭和13年にメキメキと売り出し、昭和14年春の時点で吉本全体の中でも五本の指に入る人気者になっていた。
芸人と契約書を取り交わすような時代ではなかったとは言え、当然、吉本としても黙ってはいられない。
京都府警と大阪府警が調停に入る大騒ぎとなり、ようやく同年5月末に和解が成立した。
この時、新興キネマ側の使者として、あきれたぼういずの面々に前金を渡し、引き抜きの裏工作を行っていたのが、吉本の万成座に出演していたこともある伴淳三郎であったという。
川田義雄は少し前に吉本の女優と結婚した際の仲人が東京吉本のトップの林弘高だったという義理もあり、急遽、川田義雄とミルク・ブラザースを結成して吉本に残留する。
川田を除く坊屋三郎、益田喜頓、芝利英の三人は、古川緑波一座に居た山茶花究を加え、あきれたぼういずというグループ名と共に新興へ。
残されているあきれたぼういずのSPレコードの音源では、やはりオリジナルメンバーの揃っていた時のものがコミック音楽ボードビルとして圧倒的にセンスが良く、川田の抜けた第二次あきれたぼういずも、「♪地球の上に朝が来る〜、その裏側は夜だろう〜」というテーマソングで知られる川田とミルク・ブラザースも、共に第一次あきれたぼういずに比べるとパワーダウンは否めない。
その頃の顛末については、生前の坊屋三郎から詳しく話を聞くことが出来た。
吉本では吉本ショウの中で、あきれたぼういずとして一景を受け持ち、十日ごとに新ネタを作る必要があったのに対し、新興では踊り子や女優を加えて、あきれたぼういずをメインとしたストーリー仕立ての単独のショウを作家が作り、一つのショウで京都・大阪・神戸の松竹の劇場を回ることが出来たそうだ。
僕の手元にある京都の松竹劇場や南座や大阪の浪花座での新興キネマ演芸部公演のパンフレットは丁度その頃のもので、あきれたぼういずによる新興ショウが上演されている。
昭和16年に入ると、シミキンやタップの中川三郎と共に東宝系映画館の実演アトラクションに出演することになった益田喜頓に代わり、音楽男(おとがくお)の名前と顔写真があきれたぼういずのメンバーの中にあった。
ワカナ・一郎は、まだ離婚していなかった頃で、まさに面白さの絶頂にあった頃だろう。
僕は日本の女性芸人史上で、面白さと芸の達者さにおいて、このミスワカナ(初代)がNo.1だと思っている。
SPレコードの音源の「全国婦人大会」や「ワカナの放浪記」で日本全国の方言を喋りわけ、一郎へサラリと皮肉を言っては笑いを誘うワカナの芸を聞くたびに、その達者さと色気との絶妙の配分に惚れ惚れとしてしまうのだ。
森光子もミヤコ蝶々もワカナから大きな影響を受けており、その上品な色気と捨て台詞を使いわける切り替えの間がワカナに良く似ていると思う。
絶頂のワカナ・一郎と第二次あきれたぼういずに加え、新進のコミック音楽バンドのハットボンボンズが居て、更に軽演劇の要員には伴淳三郎、森川信、有島一郎、沢村い紀雄、岸田一夫、永田キングらが揃っていたのだから、当時の新興キネマ演芸部公演の満足度と爆笑度はかなり高かったと言えるだろう。
現在、西条昇は、戦前の浅草レヴュー・軽演劇のパンフレット・チラシ類の資料や、戦後の浅草フランス座、浅草ロック座、浅草東洋劇場、浅草公園劇場、浅草ロマンス劇場、浅草百万弗劇場、浅草国際セントラル、浅草小劇場(ショウ劇場)、浅草座、カジノ座、美人座、奥山劇場(奥山ミュージック)、大都劇場、スミダ劇場(ピカデリーショウ)、新宿フランス座(新宿ミュージックホール)、新宿セントラル、新宿ニュー内外ミュージック、新宿モダンアート、池袋フランス座、池袋文化劇場、池袋アウ゛ァン座(アバンギャルド)、池袋スカイ劇場、日劇小劇場、銀座コニーバーレスク、東劇バーレスクルーム、江東パリー座、五反田オデオン座、蒲田ミュージックホール、渋谷テアトルSS、渋谷道頓堀劇場、早稲田全線座、川崎セントラル、横浜セントラル、横浜新世界、名古屋の港座、納屋橋中央劇場、富士劇場、カイケイ座(開慶座)、銀映、名古屋ミュージックホール、岐阜セントラル、KBK劇場、真砂座、京都の京極小劇場、富貴、大宮劇場、伏見ミュージック、豊橋の東海劇場、大阪の道頓堀劇場(道劇ミュージック)、温泉劇場(温劇)、弥生座(PBショウ)、泉座、木川劇場、九条OS、ダイコーミュージック、千中ミュージック、尼崎の三和劇場、二光劇場、神戸の新開地劇場、寿座、金沢の立花劇場、岡山文化劇場、広島の廣栄座、徳島のSY松竹、下関の豊前座、熊本の文化劇場、福岡の川丈座(テアトル川丈)、柳橋劇場、西日本劇場などの幕間コントありのストリップ(バーレスク)ショーのパンフレット・チラシ・ポスターを集めています。
これらをお持ちの方いらっしゃっいましたら、ぜひ、適価でお譲り頂けたら幸いです。
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また、当時のショー・軽演劇に出演されていたコメディアン・女優・踊り子さん、ショー作者、振付師、劇場スタッフの方々のお話もぜひ、伺いたく存じます。
特に西条は、執筆調査のため、浅草の大都劇場やロック座やフランス座や東洋劇場に出演されていた、高杉由美さん、園はるみさん、伊吹まりさん、川口初子さん、津田紅子さん、柳登世さん、べテイ丸山さん、浪路笑さん、ヒロセ元美さん、千代笑子さん、奈良あけみさん、メリー松原さん、グレース松原さん、朝霧幾世(リリー丘)さん、エミー美山さん、一条ゆかり(摩耶ジュリ)さん、三冬マリさん、高原由紀さん、栗田照子さん、浅草待子さん、長谷川あけみさん、炎加世子さん、天津くるみさんといった方々にお話を伺いたく、その消息とご連絡先を探しています。ご存知の方いらっしゃっいましたら、ぜひ、よろしくお願いいたします。
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